横須賀交響楽団

横須賀交響楽団の60年

横須賀交響楽団の、過去の活動内容を紹介します

1956年8月 湘南交響楽団創設、11月に第1回発表演奏会を開催

今を遡ること60年、1956年の夏、横須賀の街に小さなオーケストラが誕生しました。
止むに止まれぬ思いで楽器を手に有志が集い、楽譜が買えずに徹夜でパート譜を起こし、 レコードが擦り切れるまで聴いたモーツァルトの音が出たとき、これが横須賀交響楽団の前身である湘南交響楽団の誕生の瞬間でした。

当時の横須賀は、朝鮮動乱で帰休する外国人部隊で賑わっていた基地の街。 しかし、この賑わいは市民には無縁のものでした。
贅沢三昧に明け暮れる現代とは違い、身も心もハングリーな時代、戦後の貧困からやっと脱却しようかという時代です。
音楽が現代のような社会的地位を得ることなど想像すらできない時代背景の中、それでも音楽の虜となった数名の若者たちは、楽器片手に三々五々集ったのでした。
そんな中、第1回目の発表演奏会(定期演奏会)を開催するに至るまでの楽員たちの努力は、まさに筆舌に尽くし難いものでした。
何しろ、西洋音楽を嗜む素人の楽団に対する社会的な受け皿などまったくといって良いほどなく、 周囲の理解を得られる状況にないことは無論、楽員も十名そこそこでの出発でした。

不足していた演奏者も楽器も近郊の同志の援助を仰ぎ、大きな背伸びをして開催したのは1956年11月25日のこと、会場は横須賀学院の体育館でした。
横須賀交響楽団は、この日を創立の日としています。

当日のプログラムから、一部を転載します(原文のまま)。

「音楽の虫」

“急いでは事をしそんずる”とか、僅か三ヶ月ばかりの歴史でもって図々しくも演奏会を開こうと云うのだから恐れいる。
いや、事をしそんずるどころか、形すらまだあやふいようなオーケストラ。 何もかもまだまだ借りものづくめで、蓋をあけてしまった今日の演奏会、一つでも二つでもお耳にとまるものがあれば幸なりと云うところ。

音楽の虫にとりつかれた連中が、みなさんも渡られた心細い鉄の三笠橋を、 毎土曜日夜になると、会社から、病院から、学校から、役所から、楽器を片手に渡って集ってくる。

八月末、最初の練習日の雑音のメロディーが二回、三回とどうにか合ってくるにつけ欲深くも公演会を開催しようと決定した。
練習日数が足りないと云っては悲観し、楽器が少ないと知っては慨嘆し、資金のないのに気づいては恐縮し、あちらを拝み、 こちらに頼みしてやっとこの幕あけまでもってきた次第。

音楽と夢とを食っているような楽員たちの瞳と、少しでも美しいメロディーを奏でようとの真剣な姿とを見ることによって、午後の一刻の時間の浪費を許し給え。(K)

『当日の演奏はお粗末なものであったに違いない。が、我々が持っている総力の結集であったことに、いささかの疑いもない。
そしてそこで味わった感激、また我々を見守ってくれた聴衆の暖かい心、熱い眼差し。 あの日の感動は、今日の我々の大きな道標になったに違いない。 あの日、感動のあまり、まるで夢遊病者のように唯一人夜を徹して横須賀の街を彷徨い歩いた第1回公演のあの感動は、生涯もう二度と味わうことはあるまい…。』
と、根本永久団長は当時を述懐しています。

1957年8月 第1回 三市交響楽団合同演奏会を開催(横浜、川崎、湘南)
1959年11月 第1回 県立音楽堂フェスティバルに出演

湘南交響楽団創立の翌年、先輩格である横浜交響楽団および川崎市民交響楽団とともに、三市交響楽団合同演奏会を開催することになりました。
この演奏会は、3団体が一堂に会し、交代で演目を披露することにより、お客様にその違いを楽しんでいただくというものです。
初回の会場は川崎市立市民会館で、湘南交響楽団はビゼー作曲の「カルメン組曲」第1番を演奏いたしました。
準備の過程で団体間の交流が生まれ、不足している奏者や大型楽器の助け合いが始まります。

やがて小田原、藤沢、鎌倉にもアマチュアオーケストラが誕生して加盟も6団体となり、 横浜の県立音楽堂を中心に、それぞれの地域での巡回演奏会へと発展して行くことになります。


その後、日本を富の嵐で見舞った高度成長にともない、湘南交響楽団も日増しに活動範囲を広げて行きます。
しかし大きな音を出す集団のため、練習場の確保が容易ではありませんでした。
しばらくは横須賀学院の音楽室を借用していましたが、その後幼稚園、銀行や町工場の倉庫など、転々とした放浪時代が続きました。

また、当時の演奏会場であった市民会館は、ホールとして満足できる場所ではありませんでした。
ある演奏会で、トランペットの音と京急電車の警笛が同時に鳴ったことがありました。
後に録音で聴いてみると、警笛の方が音が良かった、というエピソードも残っています。
しかし、お客様は大変熱心に演奏を聴いてくださり、会場は常に満員でした。
湘南交響楽団は改めて、横須賀という土地柄を認識したのです。このようにして、第11回定期演奏会まで、回を重ねるごとに成長して行きます。

1965年4月 横須賀交響楽団と改称(第12回定期演奏会)

現代とは異なり、アマチュアのオーケストラが存続して行くことは、容易なことではありません。
湘南交響楽団発足から6年が経過した頃、そろそろメンバーが落ち着いてオーケストラ全体を見渡す余裕が生まれ始めたと同時に、 各人の意見が必ずしも一致しなくなってきました。
悪いことに、湘南地域にいくつかのアマチュアオーケストラが誕生し、一部メンバーが離散するという深刻な事態となってしまいます。
一時は、もう立ち上がれないかと諦めかけたこともありました。
しかし、創立当時の主要メンバーの努力により、オーケストラの解散という最悪の事態だけは、何とか回避することができました。
これを期に、横須賀市民のオーケストラとして歩むべく「横須賀交響楽団」と改称し、再出発したのです。
この公演は、第1回目の湘南交響楽団の発表演奏会に勝るとも劣らぬ感慨を、メンバーたちの心に残しました。

1965年6月 横須賀市文化会館落成記念 第1回市民祭「音楽の夕べ」に出演
1967年2月 横須賀市歌発表会に出席

市内の各文化団体にとっての新しいホームグラウンドが、1965年に誕生しました。
横須賀市文化会館です。この落成により、横須賀交響楽団の活動が活発化したのは言うまでもありません。
その後、横須賀市制60周年を記念して制作された、團伊玖磨先生作曲による横須賀市歌が完成しました。
このレコーディングに横須賀交響楽団が参加できたのは、本市に密着した文化団体として認知され始めた証でしょう。
レコーディングに引き続き開催された市歌発表会では、合唱団の皆さんとともに珠玉の郷土賛歌をホールいっぱいに響かせました。
この頃から、横須賀交響楽団の活動に市が積極的に援助してくださるようになりました。

1971年10月 創立15周年記念 第30回定期演奏会を開催

1971年、横須賀交響楽団は創立15周年を迎えました。人であれば、昔でいう元服(男子の成人)にあたります。
この公演では記念プログラムを作成し、創立から15年間の歴史を小文にまとめて掲載しました。
そして、初上演となるブラームスの第2交響曲に挑みました。
苦難を乗り越え、15年という節目を迎えた横須賀交響楽団には、喜ばしく生気に満ちたこの作品が最も良く似合うと、誰もが感じていたことでしょう。

1972年1月 成人を祝う音楽会に出演(以降2006年まで)

成人の日に行われる式典に、花を添えるべく開催された音楽会に出演することが決まりました。
若者向けに軽音楽を中心としたプログラムを組み、オーケストラがクラシック音楽専業ではないことを知っていただく良い機会となりました。

1975年4月 「故・根本英男氏を偲ぶ」と題した追悼演奏会を開催(第35回)
1975年12月 さまざまな思いを込めた第九演奏会の初上演(第37回定期)

念願だったベートーヴェン「第九交響曲」の初上演が、1975年末に決定しました。
この作品は、現在では多くのアマチュアオーケストラのレパートリーのひとつとなっていますが、 当時はまだアマチュアオーケストラにとって難曲中の難曲です。
団発足当時より、ひとつの目標をここに置いていたと言っても過言ではありません。
ところが、数年前から準備を始め、真正面から取り組んでいたところに悲報が飛び込みます。
創団以来、横須賀交響楽団のコンサートマスターであり常任指揮者であった、根本英男氏の冬山での死。誰にも信じられない出来事でした。
横須賀交響楽団はここで、音楽面・運営面での大きな柱を失いました。

雪解けを迎える季節に開催した第35回定期演奏会を、この日指揮台に立つ予定だった根本英男氏の追悼演奏会とし、 ワーグナーの楽劇「神々の黄昏」より「ジークフリートの葬送行進曲」をプログラムに加えて演奏し、ご冥福を祈りました。
そして年末、故人の遺志を継いだ第九交響曲の初上演は、無事成功裡に終了することができました。
悠久の愛の賛歌とも称される第3楽章が始まると、多くのメンバーの目は感無量の涙で潤んでいました。

1976年11月 創立20周年記念 第39回定期演奏会を開催

1976年秋、いよいよ横須賀交響楽団も創立20周年を迎えることができました。
これを機に、故・根本英男氏に「永久指揮者」の称号を、そして團伊玖磨先生に「名誉指揮者」の称号を贈りました。
また記念演奏会当日は、当時横須賀市長だった故・横山和夫氏が祝辞の後、市歌を指揮してくださいました。
またご来場のお客様に、創団以来20年のオーケストラの歩みを編纂した記念誌「交響」を配布いたしました。
重ねて、團先生の代表曲のひとつである吹奏楽のための「祝典行進曲」を、この日のためにオーケストラ編曲していただき、 先生自らの指揮でオーケストラ初演いたしました。
このように、身に余る光栄を噛みしめつつ、未来に向けてメンバー一同志を新たにしました。

20年、これは人に例えれば成人を迎える歳月です。 横須賀交響楽団は、いよいよ大人として要求される社会的責任を感じ、そして文化的な潤いのある街づくりを目指す一員として、 従来以上の厳しさを内包した、大人のオーケストラとしての活動期に入って行くことになります。

1980年11月 練習場の変遷〜常葉中学校で音楽教室を開催

練習場の確保が運営上の大きな問題であることは前述しましたが、長い放浪生活の後、しばらくは市図書館を借用して安定した練習を続けることができました。
ところが、改装工事のためここが使用できなくなるという事態を迎えます。
なにしろメンバーもかなり増え、楽譜や楽器の類も徐々にふくれ上がってきている頃ですので、簡単に居を変える事ができません。
しかし、各方面のご理解とご尽力により、常葉中学校の体育館を拝借し練習が継続できることになりました。
借用のお礼として、当校の生徒さんを対象とした音楽教室を開催いたしました。

メンバーの情熱は熱く、休むことなく練習は続けられました。
ただ、学校の体育館には冷暖房の設備がなく、特に真冬の夜、体育館は外気と変わらないほど凍てつきます。
当時の常葉中学校は、海に隣接していました。毛布を持参するメンバーも多く、使い捨てカイロは必需品でした。
また逆に、夏季は蚊の猛襲に対して虫除けスプレーも必需品でした。
そして、何より困ったのが雨でした。体育館の屋根には天井がありません。雨音は薄いドーム状の屋根で増幅され、互いの音を聴き合うことができません。
小降りになるまで小休止を強いられたものです。

1981年12月 「第九交響曲」演奏会が市民劇場公演へ移行

その後、市内小中学校での音楽教室開催や横須賀市音楽協会設立など、音楽文化の普及に積極的に取り組んだ数年の間に、 第九交響曲演奏会が市民劇場公演へと移行しました。

第九交響曲は1975年に初上演した後、1977年(第41回定期)、1979年(第46回定期)、1980年(第49回定期)と定期演奏会で取り上げてきましたが、 主催者として、合唱団と4名のソリストにご協力を仰ぐことが困難になりました。
そのため、文化会館の主催事業である市民劇場に運営をお願いし、オーケストラとして出演する形態に移行しました。
この形で1994年までほぼ毎年上演し、その後芸術劇場合唱団のコンサートシリーズ(定期演奏会)という形に姿を変え、現在に至っています。
アマチュアオーケストラとして、毎年第九交響曲が演奏できる団体は数少ないため、現在でも初上演時に込めた思いを忘れることなく、心を込めて演奏しています。

1978年〜1983年 様々なコンサートに出演

定期演奏会や成人を祝う音楽会、第九交響曲演奏会など、定例化しているコンサートとは別に、通常とは異なるステージも数多く経験しました。
1978年には、防衛大学グリークラブの定期演奏会でヘンデルの「メサイア」全曲を共演し、 1981年には、劇団委嘱の伴奏音楽(良寛)を、作曲家の平井哲三郎氏自らの指揮でレコーディングしました。

また、1982年の桜祭りの折、米海軍基地内のホールでポップスコンサートを開催しました。
当時メンバーに、米海軍所属のアメリカ人が在籍していたため実現したものですが、この頃から外国人が入れ替わり在籍するようになります。
そのため、練習中に怪しい英語の指示が飛び交うようになりました。

そして、1983年には市民祭において、バレエ「白鳥の湖」全幕の伴奏を務めました。
バレエ音楽は、振り付けによりテンポ設定や表情が変わるため、純音楽とは異なる新たな発見の連続でした。

1983年2月 合唱と管弦楽のための組曲「横須賀」初演

横須賀市制75周年を記念して委嘱された、團伊玖磨先生作曲による合唱と管弦楽のための組曲「横須賀」が完成しました。
発表演奏会当日は、作詞をされた栗原一登氏のご令嬢である栗原小巻さんが歌詞を朗読した後、團先生の指揮で初披露しました。
そして、満場のお客様の興奮覚めやらぬ終演後のホールで、レコーディングが行われました。
合唱団、オーケストラともに前日からのリハーサルで疲労困憊でしたが、團先生のOKが出るまで繰り返し録音が行われ、 結局すべて終わったのが深夜になったことも、今となっては懐かしい思い出です。

以降、毎年春にはこの組曲「横須賀」の演奏会が開催されており、30回を超えました。
この先、横須賀の文化遺産であるこの作品が、100年、200年と演奏され続けることを祈って止みません。

1984年11月 第1回横須賀音楽祭に出演
1986年2月 第1回「オーケストラを10倍楽しむ音楽会」に出演

今も昔も、クラシック音楽は難しい、堅苦しいなどと敬遠される傾向があります。
そういった方々を対象に、音楽は理屈抜きに楽しいものだ、ということを知っていただくために企画した入門コンサートが「オーケストラを10倍楽しむ音楽会」です。
司会者にマリ・クリスティーヌさんや講談師の神田紫さんをお迎えし、根本永久団長との対談形式で音楽を分かり易く解説しながら、 クラシック音楽を存分にお楽しみいただきました。
毎回テーマを変え、喜怒哀楽などの音楽表現からジャズのビッグバンドとの共演、そして講談によるカルメン物語上演に至るまで、 他では聴けない企画として人気を博しました。

1987年5月 創立30周年記念 第61回定期演奏会を開催

いよいよ、私たちのオーケストラも創立30周年を迎えることができました。
この日の演奏は、團伊玖磨先生を始めとし、常任指揮者3名(当時)も代わる代わるタクトを振りました。
また日本全国をはじめ、出張中の海外から一時帰国までして駆けつけてくれたメンバーもいたりといったように、盛大な演奏会となりました。
客席には、文化会館大ホールの定員を300名近くも超える大勢のお客様がご来場くださり、また、当日配布した記念誌「唯音楽がやりたくて」も大好評をいただきました。
さらに、演奏会終了後に開催した記念パーティーでは、ご来賓の方々から身に余る祝辞をいただくなど、この日はメンバーの心の中に終生忘れ得ない感動を残しました。
また同年、横須賀市より文化活動に対する表彰をいただきました。

1987年8月 かながわ県民コンサート'87に出演

神奈川県民ホールで開催された「かながわ県民コンサート'87」に出演しました。
当日のプログラムは「團伊玖磨の音楽」と題し、前半は神奈川フィルハーモニー管弦楽団が團先生の管弦楽曲と交響曲を、 そして後半は横須賀交響楽団と横須賀市の合唱団が、團先生の指揮で組曲「横須賀」を演奏しました。
このコンサートについて、後日新聞紙上で次のような評論をいただきました。

『プロとアマチュアの演奏団体が一同に会し、一人の作曲家の作品を競演するのは極めて珍しい。
しかもこの日は組曲「横須賀」を演奏したアマチュアの方が、より大きな印象を満場の聴衆に残した。
それはこの曲が分かりやすく書かれ、効果に富んでいたことも見逃せない。
が、そもそもこの曲を初演したのは、他ならぬこの団体。 大切な彼らのレパートリーを、親しみと熱意を込め、誇りを持って演奏しているのが、客席にひしひしと伝わってくる。それが良かった。
一つの目的に向かって心を合わせ精進する…それは、炎天下に白球を追う高校球児たちの、あのひた向きな姿勢と通ずるところがあるように見えた。』

身にあまる言葉を頂戴し、思わず襟を正さざるを得ませんでした。

1988年7月 第50回とうきょうエキコンに出演

横須賀交響楽団は、初めて神奈川県外へ足を延ばしました。
当時、マスコミでも話題になっていた東京駅(丸の内北口)コンサート、通称「とうきょうエキコン」への出演です。
文化事業がホールなど特定の場を離れ、市民の生活の場へ歩みだした初期の催しの、第50回目の記念すべきステージに、 アマチュアオーケストラとして全国に先駆けて初出演することができました。

当日は和やかな雰囲気の中、バレエありワルツあり、オペラありまたポピュラーありといった、 横須賀交響楽団のすべてを聴いていただこうと欲張ったステージになり、満場のお客様から割れんばかりの拍手喝采をいただきました。
後日、新聞紙上で「アマチュアが持つカラー」という、身にあまるご好評をいただきました。

1989年〜1992年 大曲・難曲への挑戦

30周年を過ぎた頃から、意欲的に大曲・難曲への挑戦が始まります。
1989年にはショスタコーヴィチの第5交響曲(第66回定期)、1990年にはマーラーの第1交響曲「巨人」(第68回定期)、 1991年の創立35周年記念演奏会では、ムソルグスキーの「展覧会の絵」(第70回定期)を、 そして1992年には、ブルックナーの第4交響曲(第72回定期)などを初上演しました。

これらの意味することは、団員数が充実して、従来では編成的に難しかった大曲が演奏可能になったこと、 そして、新しい感覚を持った若いメンバーたちが中心となって活躍し始めたことなどが挙げられるでしょう。
しかし、これら大編成の作品も大きな達成感をもたらしますが、原点に戻って、 古典派や前期ロマン派の作品を丁寧に紡ぎたいというメンバーが多くいることも事実です。
現在では、こうした諸々の作品をバランス良く上演できるようになりました。
ただし、聴衆の皆さんのリクエストと演奏側の希望との折り合いが最も大切であることに変わりはありません。

1991年11月 第40回神奈川文化賞を受賞

長年に亘る皆様のご声援に支えられ、栄えある「神奈川文化賞」を受賞することができました。
これは、神奈川の文化の発展・向上に貢献した個人・団体に贈られるものです。
その受賞理由は、『横須賀は第二次世界大戦後、立市の基盤を失い、昭和20・30年代は激動の時期であり、アマチュアオーケストラの運営・活動は努力と忍耐の連続。 このような中で、文化の灯をともし続けてきたことは称賛に値する』というものです。
私たちにとって、これ程の喜びはかつてありませんでしたが、光栄であると同時に、社会的な重責をあらためて感じずにはいられませんでした。

1993年5月 新しい練習場へ

新たな練習場として、汐入に完成した総合福祉会館の音楽室を借用できるようになりました。
ここは、私たち音楽愛好家にとって夢のような空間で、音響的にはかなり残響が長いホールですが、グランドピアノも常備されており、もちろん冷暖房完備。
もう、豪雨に練習を中断される心配もなくなりました。

創立当時から練習場確保に奔走してきた根本永久団長は、「やっと俺達の夢が実現した」と感慨深く語っていました。
これで、以前にも増して集中した音楽造りができるようになった反面、その責務もまたひとしお自覚せずにはいられません。
余談ながら、ここは市の施設であり、私たちの専用練習場ではありません、念のため。

1993年11月 横須賀芸術劇場 開館記念式典に出演

1993年に、よこすか芸術劇場が落成しました。私たちにとって、全国に誇れる芸術の殿堂が地元に完成した喜びは、筆舌に尽くせません。
こけら落とし公演に先立ち行われた開館記念式典では組曲「横須賀」を演奏し、ご来場のお客様はもとより、メンバーの誰もがその音響の素晴らしさに息を呑みました。
また後日、オーケストラピットの音響チェックのため、ピットでオペラやバレエ曲などを試奏し、改めてオペラハウス仕様のホールの素晴らしさに魅了されました。

思い起こせば50年程前、市民会館から文化会館へ、そして20余年前、文化会館から芸術劇場へ活動拠点を移して来た訳ですが、 これらのことからも、市民が文化を求めて社会全体がそれを受け入れ、一層発展する素晴らしい時代の到来を感じずにはいられません。
今日の横須賀の姿を、60年前の誰が想像できたでしょう。音楽をやっていて本当に良かったと、メンバーの誰もが感じています。

1994年8月 第1回神奈川県アマチュアフェスティバルオーケストラ演奏会に出演

1957年に始まった、県下のアマチュアオーケストラによる合同演奏会は、その後厚木、横浜フィル、秦野、相模原、麻生フィル、栄フィルが加盟し12団体に増えました。
そして1994年、粧おいも新たに12団体のピックアップメンバーによるフェルティバルオーケストラを編成し、公演を行うことが決まりました。
初年度の公演は、声帯模写でお馴染みの江戸家小猫(現・四代目猫八)氏をナレーターにお迎えし、県民ホールでプロコフィエフの「ピーターと狼」ほかを上演しました。
この公演では、他団体のメンバーの方々との交流の中で、横須賀交響楽団の素晴らしい面を再認識する良い機会となりました。

1994年11月 第1回室内楽コンサートを開催(以降2000年まで)
1996年10月 創立40周年記念 第80回定期演奏会を開催

メンバーのアンサンブル向上を目的に、石野音楽監督の発案で小編成の室内楽コンサートを開催しました。
毎回趣向を凝らしたプログラムでお楽しみいただきましたが、 中でも、根本永久団長をリーダーとした、ウィーンのシュランメルスタイルの弦楽四重奏団「ゾリステン・グリュンダー」は人気を博しました。

そして1996年、記念すべき創立40周年記念演奏会を開催しました。
この日は、團伊玖磨先生と常任指揮者3名(当時)の指揮の下、團先生作曲の「祝典曲」を筆頭に、 慶事に演奏してきたワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲や、新世界交響曲ほかを演奏しました。
また、演奏会終了後に劇場ホワイエにて記念祝賀パーティーを行い、ご来賓の方々から数多くの祝辞をいただくとともに、 退団した旧友も遠方より多数駆けつけてくれました。この公演で、40年の歴史の重みを再認識するとともに、来たる創立50周年に向け志を新たにしました。

1998年12月 第1回カジュアルコンサートを開催

「交響曲がうまいオーケストラは他にいくらでもある、横須賀にしかできない音楽を造ろう!」をスローガンに、 根本永久団長と石野音楽監督が中心となって企画を始めたカジュアルコンサート。
このコンサートは、肩の凝らないワルツやポルカなど、何方にも楽しんでいただける小品ばかりを集め、クラシックファンの裾野を広げることを目的としています。
近年では1月の公演となり、さながらニューイヤーコンサートの様相を呈しています。
お陰様で年を経る毎に来場者数も増え、現在では横須賀交響楽団の顔の一部となっています。

2000年7月 DAN YEAR 2000の横須賀公園に出演

「日本および東アジアの人々の心の故郷の音を奏でて半世紀。20世紀の日本音楽史に大きな足跡を印す巨星・團伊玖磨。
その代表作を日本全土で紹介する- DAN YEAR 2000」のキャッチフレーズで、2000年6月から2001年3月にかけて、 北は旭川から南は久留米まで全国規模で開催されたのが、團先生の作品を網羅した一大イベント「DAN YEAR 2000」でした。

その一環の横須賀公演で、交響曲第1番、合唱と管弦楽による「西海賛歌」、 そして合唱と管弦楽のための組曲「横須賀」を、團先生および石野音楽監督の指揮で演奏いたしました。
とりわけ「西海賛歌」は、長崎県佐世保市にゆかりの深い作品です。 当日は、佐世保市民合唱団の皆さんも遠路駆けつけてくださり、ホールいっぱいに大合唱が響き渡りました。

2001年5月 第89回定期演奏会 直前の訃報

第89回定期演奏会の2日前、当団名誉指揮者を長年務めてこられた團伊玖磨先生の訃報が、ニュースで報じられました。
本番を直前に控え、最後の調整を行っていたメンバーの多くが驚愕したのも無理はありません。先生は、中国旅行中に不帰の人となりました。
当団はここで、最も敬愛する指導者を失ったことになります。
折しも本公演では、地元出身の小泉総理大臣誕生のお祝いとして、團先生の作品「祝典行進曲」をプログラムに追加する準備を進めていた矢先のことです。

公演前日のリハーサルにおいて、「嬉しい話題から悲しみに変わってしまった。いくら團先生の作品とはいえ、やはりお祝いの曲は演奏できない」と判断し、 急遽「祝典行進曲」を「花の街」に変更して上演することを決定しました。
また会場ロビーには、横須賀交響楽団を指揮する在りし日の團先生の遺影と花を飾り、来場客の皆さんとともに急逝を悼みました。

かつて、團先生から指示を受けていたテンポを少しだけ落として「花の街」を奏し始めると、 会場には團先生との思い出に浸るかのような、静かな時間が流れて行きました。
この公演終了後、團先生に「永久名誉指揮者」の称号をお贈りしました。

2006年10月 創立50周年記念 第100回定期演奏会を開催

そして2006年、横須賀交響楽団は創立50年を迎えることができました。
これを記念し、「創立50周年ガラ・コンサート」と銘打った第100回定期演奏会を開催しました。
第1部は50年の歴史の中から、第1回定期演奏会で演奏したベートーヴェンの交響曲第1番、日本での初演を実現したピアノ協奏曲「黄河」、 そして團先生にプレゼントしていただいた「祝典行進曲」などを、エピソードを交えて演奏しました。

また第2部では、横須賀交響楽団の現在から未来をテーマに、当時演奏頻度が高かったワルツやオペラの序曲や間奏曲を、 そして未来にはばたく象徴として、ストラヴィンスキーの組曲「火の鳥」などを演奏しました。

また演奏会終演後には、隣接するホテルロビーに50年の歩みを資料展示し、お客様をお招きした記念祝賀会を催しました。
この祝賀会で、創立から50年間オーケストラ活動に尽力いただいたメンバーに感謝状と記念品を贈呈し、オーケストラを続けてこられた功績に感謝の意を表しました。

50といえば半世紀、その間に多くのメンバーが退き、またそれ以上のメンバーが新たに加わり、現在の横須賀交響楽団を構成しています。
音楽にかける情熱は心から心へと受け継がれ、微力ながらも横須賀の音楽文化の一担い手として将来を見据え、活動を続けてまいりました。
この先100年、200年と、末長く音楽の灯をともし続けることの大切さを、改めて実感する節目の公演となりました。

2005年12月 プロの指揮者による第九公演がスタート

1975年から、ほぼ毎年上演してきた第九交響曲の演奏会が、いよいよ国内外で活躍するプロの指揮者による公演へと変貌を遂げました。
2005年と2010年には北原幸男先生、2006年、2009年、そして2013年には、日本楽壇が世界に誇る秋山和慶先生、2008年には現田茂夫先生、 2011年には世界的名匠ユベール・スダーン先生、2012年には大友直人先生、 そして2015年には迫昭嘉先生と、日本および世界で活躍されている指揮者の方々のご指導を賜ることができました。

諸先生方の情熱的なご指導により、音楽と真摯に向き合うことの素晴らしさを改めて学びました。
また、オランダ出身のスダーン先生との共演は、特に印象深いものでした。
初めての海外の巨匠との練習で、言語の壁を乗り越えながらも、オランダの血を引くベートーヴェンの真髄をご教示いただき、 長い間知っているつもりでいたベートーヴェンの音楽に、新たな発見をした貴重な公演となりました。
そして、良い演奏をしてお客様に感動を届けたいという思いに、洋の東西やプロとアマチュアに垣根がないということを知ったのも、大きな収穫となりました。
今年も年末に、北原先生との3回目の共演が予定されています。

2008年3月 初のオペラ全曲公演

横須賀交響楽団にとって念願の、オペラ全曲公演の機会が訪れました。
芸術劇場合唱団の定期演奏会として上演される、マスカーニ作曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」の演奏を担当することになったのです。
準備の過程で、指揮の北原幸男先生やコレペティトール(オペラ歌手に音楽稽古をつけるピアニスト)の先生から厳しいご指摘もいただきましたが、 本場ドイツのオペラハウスで活躍されていた北原先生の熱心なご指導に、メンバー全員が一丸となり向き合いました。
使用する楽譜の版の違いを修正するため、夜遅くまでメンバーの家に集合してパート譜を訂正したり、 前回の練習で指摘された箇所を確認し合うなど、良い演奏をしたいという一念で準備を進めました。

オペラ上演の難しさのひとつに、ステージが見えないオーケストラピットでの演奏ということが挙げられます。
例えば第九交響曲のように、同じステージ上で歌手の呼吸を感じながら演奏できる音楽とは異なります。
先生の指揮棒だけが頼りとなりますが、当初はタイミングやバランスのコツが掴めず、ピットの難しさを痛感いたしました。
しかし、練習も回を重ねるごとにイタリアらしい音も出るようになり、北原先生の表情も緩んできました。

そして迎えた本番、オーケストラの後奏の音が止み、「ブラヴォー!」の掛け声とともに続き沸き起こった拍手喝采は、 すべての苦労を補って余りある贈り物でした。音楽をやってきて本当に良かったと、メンバーの誰もが実感した瞬間でした。

2010年9月 アメリカン・サウンド・イン・ヨコスカへの出演

今まで近くにいながら、交流がなかった米海軍第7艦隊バンドとの共演の機会が訪れました。
2009年まで、東京交響楽団と第7艦隊バンドとのジョイントコンサートが開催されていましたが、オバマ大統領の就任を期に、 地元のアマチュアオーケストラである横須賀交響楽団に白羽の矢が立ったのです。
東京交響楽団時代から、一貫して本コンサートの音楽監督を努めて来られた秋山和慶先生、第7艦隊のバンドマスター、 そして横須賀交響楽団音楽監督の石野雅樹の3名が交代で指揮をし、司会も横須賀出身のアナウンサー高嶋秀武氏というオンリーワン企画、まさに横須賀の音楽の饗宴です。

初めて合同リハーサルをした時の、第7艦隊バンドのパワフルさに圧倒された記憶は、今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。
彼らと話をして意外だったのは、メンバーの多くが音楽学校でクラシック音楽を専攻した経歴を持っていたことです。
オーケストラで演奏したいメンバーが多いためか、横須賀交響楽団に入団してくれる方も2012年から出始めました。
年間200回を超える演奏で多忙な中、僅かなプライべートタイムを利用して、です。
合同演奏とは違った意味での、大きな収穫となりました。
但し、彼らには任期があるため、数年で帰国してしまうという寂しさはありますが…。
彼らの、音楽に向き合う真摯な姿と高度な演奏技術は、音楽に国境がないことを再認識させてくれる良い機会となっています。

2014年1月 根本団長が永眠
2014年7月 根本永久団長の追悼演奏会を開催(第115回定期演奏会)

横須賀交響楽団の創設者の一人であり、コントラバス奏者であり、約40年に亘り団長として団を牽引して来られた根本俊男氏が、2014年1月に82年の生涯の幕を閉じました。
前年の12月28日、この年最後の練習には元気な姿を見せ、メンバーに「良いお年を!」と挨拶してくださったのに、30日に倒れ、そのまま1月10日に帰らぬ人となりました。
横須賀交響楽団を人一倍愛し、一生を捧げてこのオーケストラを育ててくださった団長との別れは、メンバーにとって何より辛い出来事でした。
通夜にはメンバーが楽器を持ち寄り、棺を囲んで団長の愛した曲を涙ながらに演奏し、最後のお別れをしました。

その後、事務局長だった上田滋を中心に新しい体制を構築し、この年7月に開催した第115回定期演奏会を、亡き団長の追悼演奏会としました。
そして、実兄でもある根本英男永久指揮者の追悼演奏会にならい、 故人が愛して止まなかったワーグナーの楽劇「神々の黄昏」より「ジークフリートの葬送行進曲」をプログラムに加えて演奏し、メンバー全員でご冥福を祈りました。

この年7月、上田滋が正式に団長に就任し、横須賀交響楽団は新たな道を歩み始めると同時に、根本団長には永久団長の称号を贈りました。

2016年10月 創立60周年記念 第120回定期演奏会を開催

そして創立60周年記念演奏会を開催することができました。
これもひとえに、長年にわたり温かく見守ってくださった皆様のご声援の賜物と、深く感謝申し上げます。
まだまだ課題は多く、ご期待に添えない部分も多々あると存じますが、本日の公演を70周年に向かう新たな出発点として見つめ直し、メンバー一同志を新たにする所存です。
今後とも、より一層のご声援をお願い申し上げます。
「唯、音楽がやりたくて」始めた横須賀交響楽団は、根本永久指揮者と根本永久団長の遺志を継ぎ、これからも未来に向かって歩み続けます。

音楽がやりたくて始めた室内楽、そこから大きく育ったオーケストラ。
60年の歳月は、よちよち歩きの幼児が、いつの間にか独り立ちして家庭を持ち、その子孫もまた独り立ちして、既に社会全体の中心となるまでに人を成長させます。
お陰様で、横須賀交響楽団も経験を重ね、分別を弁えた大人としての自覚を持つべきところにまで成長することができました。

ヨーロッパでは、音楽は何百年もの間市民生活の中に根付き、文化となってその長い伝統の上に生き続けています。
ヨーロッパの歴史と私たちのささやかな活動とを一緒にすることは大変乱暴な話ですが、 今や高い技術をもって、ヨーロッパの名演奏をまねる時代は終わらねばなりません。
自分たちの感性、知識、そして音楽に対する解釈に勇気をもって挑む…それだけの基礎を私たちは作って行かなければなりません。
それが横須賀交響楽団の個性となり、そして地域文化向上の一助となることを希望して。

現在の横須賀交響楽団の恵まれた環境は、本日ご来場のお客様をはじめとして、60年間暖かく見守ってくださった市民の皆様のご声援があったこと、 また行政側のご協力を仰げたこと、そして市内外の優良企業各社から多大なご支援を賜ってこそ実現したものです。
今後とも、市民と行政と企業とでつくるオーケストラの理想的な在り方を模索しつつ、日々精進して行く所存です。

最後に、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の中のアリアの一節、歌手試験を受ける騎士ヴァルターに、 親方歌手ハンス・ザックスが歌手の心得を諭す言葉をもって、小文を締めくくらせていただきます。

友よ
楽しい青春の日々に
こよなく幸福な初恋が心を豊かに膨らます時に
美しい歌を歌うことは誰にでもできるだろう
春に小鳥がさえずるように
人生の春が
我々のために歌ってくれているのだから

しかし
夏、秋、冬が巡りきて
多くの心労や苦痛
仕事や争いごとの中にあっても
なおも美しい歌を歌うことのできる人
それが
まさに名歌手たるべき人なのだ…