横須賀交響楽団

50周年への歩み

50周年に向けての、過去の活動内容を紹介します

湘南交響楽団の誕生

今を遡ること46年、昭和29年の横須賀の街に小さなアンサンブルが誕生しました。 止むに止まれぬ思いで楽器を手にした有志が集い、楽譜が買えず徹夜で手書きをして、レコードが擦り切れるまで聴いたモーツァルトの音が出たとき、 これが横須賀交響楽団の前身である湘南交響楽団のスタートでした。
当時の横須賀は、朝鮮動乱で帰休する外人部隊で賑わっていた基地の街。 しかし、この賑わいは市民には無縁のものでした。贅沢三昧に明け暮れる現代とは打って変わって、身も心もハングリーな時代、 戦後の貧困からやっと脱却しようかという時代でした。 音楽が現代のような社会的地位を得ることなど想像すらつかない時代背景の中、 それでも唯好きな音楽の虜となった数名の若者たちは、楽器片手に三々五々集まったのでした。 しかも大きな音を出す集団ゆえ、練習場の確保は容易ではありませんでした。 暫くは幼稚園、銀行や町工場の倉庫など、転々とした放浪時代が続きました。
そんな中、第1回目の定期演奏会を開催するに至るまでの楽員たちの努力は、まさに筆舌に尽くし難いものでした。 何しろ、西洋音楽を演奏する素人の楽団に対して社会的な受け皿など全くといってよい程なく、 周囲の理解を得られる状況にないことは無論、楽員も十名そこそこでの出発でした。 不足している演奏者も楽器も近郊の同志の援助を仰ぎ、大きな背伸びをして開催したのは昭和31年11月25日のことでした。 横須賀交響楽団は、この日を創立の日としています。
「当団の演奏はお粗末なものであったに違いない。が、我々が持っている総力の結集であったことに、いささかの疑いもない。 そしてそこで味わった感激、また我々を見守ってくれた聴衆の暖かい心、熱い眼差し。 あの日の感動は、今日の我々の大きな道標になったに違いない。 あの日、感動のあまり、まるで夢遊病者のように唯一人夜を徹して横須賀の街を彷徨い歩いた第1回公演のあの感動は、生涯もう二度と味わうことはあるまい…」 と、当団の団長根本俊男は当時を述懐しています。
その後、日本を富の嵐で見舞った高度成長に伴い、私たちのオーケストラも日増しに活動範囲を広げてゆきます。 楽員数も数十名に増加し、年に二度の定期演奏会が軌道に乗り始めます。 それでも、順風満帆に事が運ぶはずもなく、活動資金の調達、練習場および演奏会会場の確保、楽器および楽譜の購入、楽友との離別など、 苦労の種は枚挙に暇がありませんでした。
蛇足ながら、昭和30年代前半は彼のストラヴィンスキーが来日を果たしたり、巨匠トスカニーニが亡くなったといったことがありました。 また30年代後半になると、イタリア歌劇団の度重なる公演があり、デル・モナコやデバルディが日本人に大きな感動を与えてくれた時代でした。 なお、日本フィルの創設も私たちと同じく昭和31年のことです。

横須賀交響楽団と改称し、公の場での活動が始まる

アマチュアオーケストラの団員は、もともと音楽が好きで、自らの意思で活動に参加している訳で、 各自の音楽に対する考え、好みは様々です。
湘南交響楽団発足から第10回定期演奏会を消化した頃、そろそろ団員が落ち着いてオーケストラ全体を見渡す余裕が生まれ始めたと同時に、 各人の意思が必ずしも一致しなくなってきてしまいました。 これはどんな組織にもある試練、関門の一つでしょう。 さらに悪いことに、本市近郊に新しいアマチュアオーケストラが幾つか生まれ始め、運営上の問題も重なり、 一部メンバーの離散という事態が起こり、演奏活動にも影響を与えるほどの深刻な事態となってしまいました。 しかし、創立当時の主要メンバーの努力により、練習だけは細々とでも続けられ、 オーケストラの解散という最悪の事態だけは何とか回避することができました。
昭和40年、「湘南交響楽団」から「横須賀交響楽団」と改称し、神奈川県アマチュアオーケストラ連盟発足、 横須賀市文化会館の落成記念演奏会出演、横須賀市歌発表演奏会出演など、公の場での活動も始まり、 団員数も少しずつ安定してきました。 「成人を祝う音楽会」の出演が始まったのもこの頃のことです。

ピアノ協奏曲「黄河」の世界初演

昭和47年、田川誠一先生のご尽力により、中国のピアノ協奏曲「黄河」の中国以外での世界初演が実現しました。 当時はまだ日中の国交が回復していなかったため、田川先生にお願いして外交特別便としてスコアを取り寄せていただき、 団員の手によりパート譜を写し取って初演に漕ぎつけました。 演奏会当日は、中国から李代表を始めとするお客様をお招きして、本邦初演は大成功に終わりました。
終演後、李代表がステージに駆け上がり、涙を流しながら団員に抱きついたというエピソードもあり、 音楽面での日中の民間外交の先駆的役割を果たした意義は大変大きなものでした。 人民日報紙はこの快挙を中国全土に報じています。

さまざまな思いを込めた第九の初演

昭和50年暮、念願のベートーヴェン第九交響曲の上演が決定しました。 この曲は、現在ならどこのアマチュアオーケストラでもそのレパートリーの一つとなっている程ポピュラーな曲になっているかも知れませんが、 当時はまだまだアマチュアオーケストラにとって難曲中の難曲。 団発足当時より一つの目標をここに置いていたと言っても過言ではありません。 その準備は数年前から始められ、団員一同真正面から取り込み、これからというところに悲報が飛び込みます。 創団以来横須賀交響楽団のコンサートマスターであり常任指揮者であった根本英男氏の冬山での死。 誰にも信じられない出来事でした。 横須賀交響楽団はここで、音楽面・運営面での大きな柱を失いましたが、故人の遺志を継いで、 年末の初演は見事大成功を収めました。 第三楽章の主題が弦楽器によって奏され始めると、多くの団員は感無量の涙で目が潤んでいました。

オーケストラも成人に

昭和51年秋、いよいよ横須賀交響楽団も創立20周年を迎えることができました。 これを機に、故・根本英男氏に「永久指揮者」の称号を、そして團伊玖磨先生に名誉指揮者の称号を贈りました。 また記念演奏会当日は、前横須賀市長の横山和夫氏が市歌を指揮してくださり、 またご来場のお客様に、創団以来20年のオーケストラの歩みを編纂した記念誌「交響」を配布いたしまいた。 重ねて、團先生作曲の「祝典行進曲」が先生自らの指揮でオーケストラ初演されました。 この作品は、今上天皇陛下のご成婚を祝して作曲されたもので、もともと吹奏楽用だったものを、 創立20周年のお祝いに作曲者自らオーケストラ用にアレンジしてプレゼントしていただいたものです。 このように、身に余る光栄を噛みしめつつ、未来に向けて団員一同志を新たにしました。
20年、これは成人式を迎える年齢です。 横須賀交響楽団はいよいよ大人として要求される社会的責任を感じ、 そして横須賀市の文化向上に微力ながらもお役に立てることを目標に、 従来以上の激しさを持つ大人のオーケストラの活動に入る時期がやってきたのです。

練習場の変遷

練習場の確保が運営上の大きな問題であることは前述しましたが、 長いジプシー生活の後、暫くは市図書館を借用して安定した練習を続けることができました。 ところが、改装工事のためここが使用できなくなるという事態を迎えます。 なにしろ団員数もぼつぼつ安定し、楽譜や楽器の類も徐々に膨れ上がって来ている頃です。 おいそれと簡単に居を変える事ができません。 しかし、各方面のご理解とご尽力により、中学校の体育館を開放していただき練習が継続できるようになりました。
メンバーの情熱は熱く、休むことなく練習は続けられましたが、ただ、学校の体育館は冷暖房の施設は全くなく、 特に真冬の夜は外気と変らないほど凍てつきます。 毛布を持参する団員も多く、使い捨てカイロは必需品でした。また逆に、夏場は蚊の来襲に対して虫除けスプレーも必需品でした。 そして何より困ったのが雨でした。体育館の屋根には天井がありません。 雨音はダイレクトに響くため、お互いの音を聴き合うことができなくなります。 小降りになるまで小休止を強いられたものでした。
一方この頃、アマチュアオーケストラ連盟の仕事で、県立音楽堂や厚木市文化会館などへ移動演奏会も多くあり、 市外での活動も活発に行うようになりました。

組曲「横須賀」初演

その後、市内小中学校での音楽教室開催や横須賀音楽協会設立など、音楽文化の普及に積極的に取り組んだ数年が過ぎ、 昭和58年2月、横須賀市制75周年を記念して、團伊玖磨先生作曲による合唱と管弦楽のための組曲「横須賀」の完成を見ました。
発表演奏会当日、満場のお客様の熱狂的な興奮が覚めやらぬ文化会館大ホールでレコーディングが行われました。 オーケストラ、合唱団ともに前日からのリハーサルで疲労気味でしたが、團先生のOKが出るまで繰り返し録音が行われ、 結局終わったのが深夜になったのも今となっては懐かしい思い出になりました。 以降、毎年春にはこの組曲「横須賀」の演奏会が開催されています。

仕事と趣味のはざま

アマチュアオーケストラ故の悩み、その最大のものは仕事です。 いくら音楽が好きでも、本職を放り出す訳にはゆきません。特に昭和60年は横須賀交響楽団にとって苦しい一年でした。 指揮者の石寺氏がソ連の日本大使館へ、そしてコンサートマスターの山下氏とチェロの首席の瀬川氏が揃って渡米してしまったのです。 オーケストラの要に位置する3人を欠いて、それでも若い団員たちが何とかその穴を埋めようと必死で持ちこたえたのです。 現在では、その時代頑張った若い団員たちが中心となって活躍していることは言うまでもありません。
100名を超える大所帯にもなれば、演奏会当日に出張が重なったりすることも度々あり、 全員が揃ってステージに登ることはほとんど不可能です。 毎週の練習も同様、土曜日の夜といっても直接職場から駆け付けるメンバーも多く、 東京から車を飛ばしてきて、最後の5分間を一緒に演奏しただけで帰って行く団員もいます。
また、遠方から練習に通ってくる団員も多く、横浜・川崎はもとより、東京・千葉から駆け付ける団員もいます。 そんな団員に聞くと、「横須賀じゃないと面白くない」と口を揃えて言います。 皆、”音楽”が、そして”横須賀交響楽団”が本当に好きなんです。

充実した30周年

いよいよ私たちのオーケストラも創立30周年を迎える事ができ、その記念演奏会を昭和62年春に開催しました。 この日の演奏は、ソリストによき理解者であるピアニストの矢野義明氏を迎え、 團伊玖磨先生を始めとし、当団常任指揮者3名も代わる代わるタクトを振りました。 また日本全国を始め、出張中の海外から一時帰国までして駆け付けてくれたメンバーもいたりといったように、 盛大に執り行われた演奏会でした。 客席は文化会館大ホールの定員を300名近くもオーバーする大勢のお客様がお越しくださり、 また当日配布した記念誌「唯音楽がやりたくて」も大好評をいただきました。 また演奏会終了後に記念パーティーを行い、ご来賓の方々から多くのご祝辞をいただきました。
この日は横須賀交響楽団の歴史の中で最も輝かしい一日となり、団員の心の中に終生忘れ得ない感動を残しました。
また同年、横須賀市より文化活動に対する表彰を受けました。

「かながわ県民コンサート」への出演

昭和62年秋、神奈川県民ホールにて「かながわ県民コンサート’87」に出演しました。 当日のプログラムは「團伊玖磨の音楽」と題し、前半を県内のプロオーケストラが、そして後半を横須賀交響楽団と横須賀市の合唱団で、 團伊玖磨先生のタクトのもとに組曲「横須賀」を演奏しました。 このコンサートについて、後日新聞紙上で次のような評論をいただきました。
『プロとアマチュアの演奏団体が一同に会し。一人の作曲家の作品を競演するのは極めて珍しい。 しかもこの日は組曲「横須賀」を演奏したアマチュアの方が、より大きな印象を満場の聴衆に残した。 それはこの曲が分かりやすく書かれ、効果に富んでいたことも見逃せない。 が、そもそもこの曲を初演したのは、他ならぬこの団体。 大切な彼らのレパートリーを、親しみと熱意を込め、誇りを持って演奏しているのが、 客席にひしひしと伝わってくる。それが良かった。 一つの目的に向かって心を合わせて精進する…それは、炎天下に白球を追う高校球児たちの、あのひた向きな姿勢と通ずるところがあるように見えた。』
身にあまる言葉を頂戴し、思わず襟を正さざるを得ませんでした。

「とうきょうエキコン」への出演

昭和63年、横須賀交響楽団は初めて神奈川県外へ足を延ばしました。 マスコミで話題になった東京駅コンサート、通称「とうきょうエキコン」への出演です。 これは、文化事業が特定の場(ホールなど)を離れて市民の生活の場へ歩みだした最初の催しだったのです。 この50回目の記念すべきステージに、アマチュアオーケストラとして全国に先駆けて初出演することができました。 この脚本・演出もすべて団員の手によって企画し、和やかな雰囲気の中、バレエありワルツあり、 オペラありまたポピュラーありといった、横須賀交響楽団の総てを聴いていただこうと欲張ったステージになり、 満場のお客様から割れんばかりの拍手喝采をいただきました。
また後日、新聞紙上でアマチュアが持つカラーということで身にあまるご好評をいただきまいた。

大曲・難曲への挑戦

30周年を過ぎた頃から、意欲的に大曲・難曲への挑戦が始まります。 といっても、従来取り上げてきた作品と比較し、近代作品の世界へ踏み込んだという意味で、 ブルックナーの第4交響曲、マーラーの第1交響曲「巨人」、ショスタコーヴィッチの第5交響曲、 そして創立35周年記念演奏会ではムソルグスキーの「展覧会の絵」などにも挑戦しました。 これらの意味することは、団員数が充実して、従来では編成的に難しかった大曲が演奏可能になったこと、 そして、新しい感覚を持った若い団員たちが中心となって活躍し始めたことなどが挙げられるでしょう。 しかし、これらの大編成の作品も大きな達成感をもたらしますが、原点に戻って、古典やロマン派の作品を、 じっくりと中身濃く演奏したいというメンバーが多くいることも事実です。
現在では、こうした諸々の作品をバランス良く上演できるようになりました。 但し、聴衆の皆さんのリクエストと演奏側の希望との折衷が最も大切であることに変わりありません。

神奈川文化賞受賞

平成3年、皆様の長年に渡るたゆまないご声援に支えられ、栄えある「第40回神奈川文化賞」を受賞することができました。 これは、神奈川の文化の発展・向上に貢献した個人・団体に贈られるもので、その受賞理由は、 『横須賀は第二次世界大戦後、立市の基盤を失い、昭和20・30年代は激動の時期であり、 アマチュアオーケストラの運営・活動は努力と忍耐の連続。 このような中で、文化の灯をともし続けてきたことは称賛に値する』というものです。 私たちにとって、これ程の喜びはかつてありませんでしたが、光栄であると同時に、 社会的な重責をあらためて感じずにはいられませんでした。

新しい練習場へ

平成5年5月、新たな練習場として、汐入に完成した総合福祉会館の音楽室を借用できるようになりました。 ここは私たち音楽愛好家には夢のような空間で、音響的にもかなり理想に近い響きを持つホールで、 グランドピアノも常備しており、もちろん冷暖房完備。もう豪雨に練習を中断される心配もありません。 創立当時から苦労してきた団長は「やっと俺達の夢が実現した」と、感慨深く語っていました。 これで、以前にも増して集中した音楽造りができるようになった反面、その責任もまたひとしお自覚せずにはいられません。
余談ながら、ここは市の施設であり、私たちの専用練習場ではありません、念のため。

「よこすか芸術劇場」完成

同年11月「よこすか芸術劇場」が完成しました。 私たちにとって、他に誇れる芸術の殿堂が地元に完成した喜びは筆舌に尽くせません。 こけら落とし公演に先立ち行われた開館記念式典では組曲「横須賀」を演奏し、 来場客はもとより、メンバーの誰もがその音響の素晴らしさに息を呑みました。 また後日、劇場のオーケストラピットの音響チェックのため、ここでオペラやバレエ曲などを試奏し、 改めてオペラハウス仕様のホールの素晴らしさに魅了されました。 団員誰もが夢見心地であったことは言うまでもありません。
思い起こせば30年前、市民会館から新成の文化会館へ、そして今回、文化会館から芸術劇場へ活動拠点を移して来た訳ですが、 これらのことからも、市民が文化を求め、社会全体がそれを認容して一層発展する素晴らしい時代の到来を感じずにはいられません。 今日の横須賀の姿を、40年前の誰が想像できたでしょう。音楽をやっていて本当に良かったと、団員の誰もが感じています。

市民と行政と企業とでつくる音楽

音楽がやりたくて始めた室内楽、そこから大きく育ったオーケストラ。 50年の歳月は、よちよち歩きの幼児が、いつの間にか独り立ちして家庭を持ち、 子孫を残すまでに人を成長させますが、私たちのオーケストラも、大人として自覚を持つべきところまでに成長いたしました。

ヨーロッパでは、音楽は何百年もの間市民生活の中に根付き、文化となってその長い伝統の上に生き続けています。 ヨーロッパの歴史と私たちのささやかな活動とを一緒にすることは大変乱暴な話ですが、 今や高い技術をもってヨーロッパの名演奏をまねる時代は終わらねばなりません。 自分達の感性、知識、そして音楽に対する解釈に勇気をもって挑む…それだけの基礎を私たちは作って行かなければなりません。 それが横須賀交響楽団の個性となり、そしてそれが地域文化の向上の一助とならんことを希望して。

現在の私たちの恵まれた環境は、50年間暖かく見守って下さった市民の皆様のご声援があったこと、 また行政側のご協力を仰げたこと、そして市内外の優良企業各社から多大なご支援をいただけたことがあってこそ実現したものです。 今後とも、市民と行政と企業とでつくるオーケストラの理想的な在り方を模索しつつ、日々精進して行く所存です。
最後に、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の中のアリアの一節、 歌手試験を受ける騎士ワルターに親方歌手ハンス・ザックスが歌手の心得を諭す言葉をもって、小文を締めくくろうと思います。

友よ、楽しい青春の日々に、
こよなく幸福な初恋が心を豊に膨らます時に
美しい歌を歌うことは誰にでもできるだろう
春に小鳥がさえずるように
人生の春が
我々のために歌ってくれているのだから

しかし
夏、秋、冬が巡りきて
多くの心労や苦痛、
仕事や争いごとに中にあっても
なおも美しい歌を歌うことのできる人
それが
まさに名歌手たるべき人なのだ…

メルマガ購読・解除
横須賀交響楽団
コンサート情報
登録方法のご案内

バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
コピーライト